福井県あわら市熊坂
熊坂長範物見の松( くまさかちょうはん ) 謡曲「熊坂」・「義経記」
 
このページの最後へ 熊坂大仏と熊坂長範物見の松の由来
福井県あわら市熊坂の南端で、旧国道8号線の道路沿いの一角に、4m四方の大仏殿があって、中には熊坂長範の物見の松で造られた高さ2mあまりの立派な「阿弥陀仏像」が納められている。
また、蔵王権現堂下の農道わきに「熊坂長範物見の松跡」の石碑が建立されているが、松の生えていた実際の場所は、元「大仏畠」と呼ばれていた山裾の畠の中で現地は土地改良により水田化されている。

熊坂長範の伝説は、本州各地の14都県(福井、石川、滋賀、岐阜、新潟、長野、秋田、山形、神奈川、東京、愛知、三重、兵庫)に及び、それぞれの土地に幾百年となく語り伝えられている中に、夫々の土地のふる里意識と人々の情念とが相まって、各地方によりその内容が多少違っているのも興味深い。

たとえば、人情味のある義賊として、また、北面の武士とか、中空侍、あるいは、藤原氏、源氏の従者となって保元の乱で活躍したりしている。舞台の表面に現われるのは、久安年間(1145〜1170)までである。つまりおよそ八百年あまり前の、熊坂が当時河口の庄荒井郷の山荒井と呼ばれ、七垣内に分散していた地域を統一した、春日神社が創建された頃に生まれ、1180年代源頼朝による源氏再興の時以前にすでに死亡していたと伝えられている。

長範伝説は、その信憑性は定かではないが、少なくとも世に云う強盗や弱者いじめの追いはぎの類ではなくて、時には無力で貧しい村人達を助けた頼母しい義賊として、庶民の心の中に時代を越えてずっと生き続けて来た長範像は、草深い山里の人々の心の中に夢とロマンを托すことの出来た大切な人物であり、まさしく長範こそ草の中の英雄でもあったようにも思われてはならない。

長範の名は、福島県では、保元物語に登場する熊坂四郎を祖とし、越前や加賀では熊坂太郎として伝えられている。生まれは、福島、越後、信濃、そして定説といわれる越前と加賀にまたがる熊坂地域だと伝えられている
     

昭和15年頃、当熊坂出身の衆議院議員熊谷五右衛門氏が当時の帝国大学(現東京大学)の歴史担当教授に依頼して、当地出身の根拠とその信憑性について、いろいろと調査研究をされて来た様だが、残念ながら確たる史実に乏しく、どうしてもこの地に特定出来なかったようである。

その当時、熊坂長範の名を聞くだけで泣く子も黙ったと云われ人々に恐れられた長範も、謡曲「熊坂」や「義経記」で見られるように、源義経が京都の鞍馬山から、八幡太郎義家ゆかりの奥州平泉へ向かう途中、美濃の国赤阪の宿で京都のあぶら商人から盗みを働こうとしたが、義経の巧みな秘術にあやつられて、遂に青野ヶ原で討たれたとされており、享年63才と記されている。

また、福井や石川の伝説では、長範も晩年になってふるさとに戻り、前非を悔い、改心ざん悔の上出家して仏門に入り、後に丹漸上人と名乗って、道徳堅固な僧として修業につとめながら往生の本懐を遂げたとも伝えられているし、
史実に近い話としては、1120年頃熊阪が奈良の興福寺の荘園に組み込まれ、疋田斉籐の一族である以永(これすけ)が、地方を治める役人である勧農使として、熊坂に館を構えた所でもあると言われ、この以永が通称「熊坂太郎」と呼ばれた人物で、その子孫は150年程で使命を終えたが、残されたその館跡には、樹令2〜300百年を経た松の大木があって、物見やぐらとして家来達に見張りをさせては、道行く旅人をうかがったという。

長い間「熊坂太郎の松」と呼ばれていたが、それがやがて「熊坂長範物見の松」になり、
今日に語り告がれたともいわれ、付近一帯が「城の腰」としてその地名が、土地改良前までは残されており、現在は「一〇七布代」の字名に変更されている

     

幾多のロマンを秘め、数々の伝説を残している「熊坂長範物見の松」も、江戸時代末期には、長範の死後八百年余りを経過し、当時の樹令はおよそ一千年あまりで、胸高直径およそ2.5mあまりに成長していたものと想像される。

見事に育った松の大木も、惜しくも嘉永五年(1852)の大旱魃で枯れてしまい、由緒のある大変貴重な松であり、有効な活用法をいろいろと思案中のところ、法事のためたまたま熊坂村の門徒酒井甚右衛門宅に宿泊された、仏師であり彫刻の達人でもあった前谷村松龍寺住職の達誉智山和尚の枕許に阿弥陀仏が現われて、「あの松の木があのまま朽ち果ててしまうことは洵に悲しく惜しい。汝は彫刻の心得があるので仏像を刻んで、一切の衆生化益の資とするならば、利益は宏大で現世安穏となり、往生極楽の喜びしたたる物無数ならん。」とのお告げを受けたので、早速村人にはかり太い幹の部分で立木のままで仏様に刻んで、長く後世に残すことを決意され、約四年程の苦心の末見事に完成し、安政三年(1856)の春には盛大な開眼供養の大法要が、多数の参詣者を迎えて盛大に挙行されたと伝えられている。

完成された大仏は、立木のままの松の一本彫りで、高さは2.43m、両膝の張り幅の約1.95mで如何に大きな松の木だったかが想像されます。
智山和尚は、その後も残された木で、一千体の阿弥陀仏を製作され、松龍寺前の小さなお堂に安置されている。
明治11年の新道開設(現国道八号線)により、旧街道は人通りも無くなり、村より少々離れているために、参詣にも不便を感じたので、根元より切り離し、現在地に大仏殿を建立の上遷座された。

不運にも、昭和7年2月10日不審火による火災のため、竜田家の全焼で類焼し、大仏様の表面が炭化して黒仏となり、20年あまりもそのままの姿であったが、激動の第二次世界大戦の敗戦と福井地震による災害も、人々の努力で世の中もようやく安定しかけた昭和25年、大仏修復への区民の総意もまとまり、区民一丸となっての協力と、周辺地域での奉願運動によって多額の浄財が集められ、当時、音楽家で彫刻の巨匠でもあった雨田光平氏の手により、昭和31年元通りの大仏に修補復元されて今日に至っている。

復元されて以来、毎年2月上旬区長主催による「大仏講」が催されて区民多数が参詣し、松龍寺住職の読経と講話が盛大に行なわれている。
長曽の山裾で多年の風雪に耐え抜き、一時は人々を苦しめた松の大木ではあったが、不思議な夢の告げで大仏様に化身して、世の平穏と人々の幸せをお守り下さるお姿に接し、何かしら言い知れない感動を覚えてならない。

 
 立木のまま義賊ゆかりの松なれば
     彫りて刻みぬ この大仏に

               作家 永井 鱗太郎作

竜田家の敷地に大仏が安置されている、お堂 

付近の地図

熊坂長範の埋蔵金の話
付近の山で、「朝日さし、夕日輝く木のもとに、漆千片朱千片、こがねの折敷七折敷、子孫のために埋置」という言い伝えがあります。

現在は丸岡町に在住ですが、出生地は熊坂です。
物見の松のあった付近に畑があり、小さいころ墓碑の周りで遊んだこともあります。
現在は土地改良で、田になり、墓碑も移動しています。
田、畑の地籍には名称があり、ここは 「おぼとけ」と言われています。小さい頃は意味がわかりませんでしたが
「御仏」ですね。

日本各地に長範伝説がありますが、言い伝え・いろいろな文献等も合わせると、当地が伝説の場所だと思うのですが・・・

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